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これから社会のリーダーとなる若い人たちへ

2011年03月13日
「東北地方太平洋沖自身」と命名された3月11日の大地震から、もうすぐ丸2日が経とうとしています。
今はマスコミもWebの世界も、この大震災の話題で溢れかえっています。

この2日間、twitter でもやはり大震災の話題がほとんどで、大震災と関係のないことをつぶやいている弁護士さんを非難する人など、やや過剰に反応されている方々も見受けられます。
とはいえ、最も被害の大きな地方にいる方にとって、twitter は貴重な情報源ともなっているようですので、そのような方のTLを邪魔しないためにも、私としては「いつもの無益なつぶやき」は控えるようにしています。

ところで今朝私は、朝早く目が覚めて、twitter をぼんやりと眺めていました。
そうしたところどこかの大学生の方の、「お金がないから募金ができない。被災地に行っても邪魔になるだけだろうし・・・」 概ねこのような趣旨のつぶやきを目にしました。
おそらくそんな、もどかしい思いをしている学生の方というのは、ほかにもたくさんいらっしゃるのだと思います。
でもそんなに焦ったり、ましてや罪悪感を感じることなどありません。
「欲がない」「草食系」「物に恵まれて育ったから云々・・・」などと、とかく悪くいわれる若者ですが、年寄りの雑言などに惑わされることはありません。私だって、そしてもっと上の世代の人だって、いつの時代も「今の若者は・・・」と言われ続けているのですから。
そんな中、「自分にできることは何だろう」と考えて無力感に陥ってしまっているだけでも立派なもんです。私はそう思います。

さて、そんな学生さんや若者たち。つまりこれから世界を動かしていく世代の方々にとって、僅かながらでも参考になればと思い、このエントリを書いています。
私がこれまでに経験した、幾つかの「大きなトラブル」。これらは今回の震災に比べれば全くと言っていいほど小さなトラブルではありますが、そのような経験から、日頃感じていたことを一つだけ伝えたいと思っています。

それは、
「頼りになる人間かどうかは、トラブルのときにこそよく見える」
ということです。

今は何もできなくても、よく観察しておいてください。
今回のような大きなトラブルが起きた際、

1.的確な判断
2.素早い決断
3.行動


これらを行える人が人を引っ張っていきますし、反対から言えば、頼りになる人というのはこれらの行動をとっています。
また、ふだんはこのような行動がとれる人でも、トラブルの最中ではそうもいかないことがよくあります。
逆にふだんは力を発揮することができずに悶々としていた人が、トラブルが起きたときにこのような行動を示すこともあります。
そしてトラブルの最中にむやみに人を批判したり、徒に不安を煽るような発言を繰り返すだけのような人は、信頼するに全く値しません。


これから日本や世界のリーダーになる方たち、別に社会的な権威や権力をもつ人だけがリーダーというわけではありません。
小さな会社の経営者であったり、肩書はなくとも会社で人を引っ張っていったり、地域のおじさんの集まりの世話人であったり・・・
どんな形であれ、これからリーダーとして社会を引っ張っていく若い方たちは、いまは何もできなくてもどかしい思いをしているかも知れません。
しかし、今回の震災に対する大人たちの対応をよく観察して理解し、これからの社会をリードしていけるように準備をしておいてほしいと思います。


以上、小さな会社で小さな組織を引っ張っているに過ぎない30代半ばのおっさんのつまらないアドバイスですが、若い方々にとって何らかの参考になれば幸いです。


まだまだ被害は収まる様子がありませんが、亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに、少しでも多くの人の命が守られ、心穏やかに過ごせるようになることを心から願っています。
そして震災の影響を受けていなかったり、影響が小さかったりという方々は、できる限り「いつもどおりの生活」を続けてほしいと思います。実際には、いつもと変わらず仕事をしている人たちがほとんどです(わが家にも先ほど新しいテレビが予定通り運ばれてきました)。

最後に、(またしてもですが)武者小路実篤の詩を引用して終わりたいと思います。
私を含めた「おっさん以上」の人たちは、このような心持ちで若い人に接するべきだという自戒の念をこめて。


遠大な志をもち
思慮深くして
鐡の如き意志を有し
しかも快活にして
朗らかな心をもつ
新しく生れた種族よ
自分は君たちのくるのを
待っていた
祝福をおくる



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時間の使い方を再考してみることにした、という話

2010年06月11日
今日は、私の尊敬する方で、「この方には一生アタマが上がらない」という方に、

「hiroさんのメールは長いので、書いている時間がもったいないですよ」

と指摘されました。

「今回のような場合には、メールでは簡単に用件を伝えて、会った時とか電話なんかで話した方が効率がいいですよ」とも。

私としては「その方の貴重な時間を取っては申し訳ない」という気持ちと、「より正確に伝えたい」という気持ちから、長いメールを書いていたのです。
ですので何となく違和感を感じながらも、「いやいや確かにそうですね。ごめんなさい」とその場ではお答えしました。


でも後になってもう一度よく考えてみました。
「時間がもったいない」
「効率が悪い」
この言葉がとても引っ掛かっていたのです。


そしてしばらくして、ようやくその方の助言が腹に落ちました。

「今までの自分のやり方は、単なるスピードアップだった」
ということに気付いたのです。

というのも、私はこと仕事においては、時間管理をきちんとしているつもりでいました。
そして「やる必要のないこと」は、可能な限り排除しているつもりでした。
つまり「効率をしっかり考えて仕事をしている」と思っていたわけです。

だから「ほとんど残業もなく、それなりの結果もきちんと残している」と、少し自分自身を過大評価していました。

しかしそれが単なる思い込みだということにハタと気づいて、頭を殴られたようなショックを受けたのです。


もちろん「ちょっとした時間短縮法」(≒スピードアップ)の有用性は否定しません。
また、緊急度合いを横軸に、重要度合いを縦軸にしたよく見るマトリックスを頭に浮かべつつ、「今やるべきことと、今やるべきでないこと」を考えたりもしていました。

だけど仕事で最もよく使うメールに関して、「一球入魂」とばかりに、長文化してしまう傾向があることには気付きませんでした。
振り返ってみると、取締役会資料や重要な報告書のような、若干クドいメールを書いていることがあります。
とはいえ、「メールで全てを完結する必要がある場合」というのもあるので、そこは使い分けが必要でしょうが、むやみやたらと、長文を書いてしまうのは時間の無駄だな、と気付いた次第です。

さらにいえば、これは一つの象徴的な傾向で、ほかにも「時間のムダ」が多くある気がしてきました。
質の高い仕事を継続的に行うには、本当に時間をかけるべきところと、そうでないところをはっきりさせることが必要だ、ということにあらためて気付かされたのです。
そのようなことをバシッっと言ってくださる方というのも、会社内で立場が上がるにしたがってなかなかいなくなってしまうので、今日のような助言を下さる方は本当にありがたいなぁ、と感謝しているところです。

忙しくなるととかく目の前の仕事をやっつけることに気が急かされてしまい、深く考えることなく余計な仕事までしてしまって、さらに忙しくなる、という悪循環にハマってしまいがちです。
そのようなわけで、自分の時間の使い方については、定期的に見直す必要があると思ったので、忘れないようにここに書いておこうと思います。








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メンタルヘルスと相談窓口

2010年05月02日
私の知り合いが仕事上のストレスから体調を崩しています。

それは主に上司の心無い言葉の数々が原因なのですが、彼女は私と違ってとても「忍耐強い」ので、何を言われても自分の中で消化してきたんですね。

そして年に何度かは消化不良を起こし、精神的に参ってしまうという状況のようでした。

私は以前から彼女に転職を勧めていたのですが、「子持ちなので時間短縮」という条件で正社員を雇ってくれる会社というのも、そう多くないのは目に見えています。
私は、雇用形態に関係なく少しゆったり働くことを提案していたのですが、就職氷河期に苦労して正社員になった彼女には、なかなか思い切りがつかなかったようです。
そんなわけで彼女は、時々体調を崩しながらも何とか仕事を続けていました。


彼女はもともとアトピー性皮膚炎で、ステロイドを子供の頃から塗ってきたおかげで、ステロイドをやめてからの数年間は副作用に相当苦しんだようです。
今でも精神的にキツくなると、足や手などを血が出るまで掻いてしまうとのことです。

そして今回は、精神的なものと痒みとが両方襲ってきたので、とても仕事どころではないようです。
本人は「今は忙しいから休めない」と言っていましたが、どうしても会社に行くことができずに、結局は休みをとることになったとのことです。


ところで私は職場で「社内相談窓口」もやっています。
ですので、相談する側の不安、例えば「話が大きくなってしまうのではないか」「匿名性は保たれるのか」「窓口は会社側に立つのではないか」などを経験として知っています。
「会社で働き続けたいと考えている人をいかにケアしてあがられるか」
これはなかなか難しいことではあるのですが、会社のためにも重要なことだと感じています。
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血液型を知る必要があるのは輸血の時だけだと思う。

2010年02月07日
血液型で人の性格を判断するのはやめようよ。

これは僕が中高生の頃から一貫して思い続けていることです。

「人間がたったの4種類に分けられるわけがない」
「血液型で性格診断をするのは日本人くらいだ」

こんな言葉で、血液型によって人を判断することの滑稽さを主張する人もいます。
僕も確かにそう思います。

特に、尊敬する人や信頼する人が「あいつはB型だから」とか、「君は何型?」などと話すのを聞くと、本当にガッカリします。
こういうことを言うと、「信じてはいないけど、話のネタとして・・」だとか、「信じてはいないけど、多少の傾向はあるよね」などと答える人もいます。

今朝、twitter上で、「ある職業にはB型が多い」という話題がありました。
僕は口を挟みたくなりましたが、そういうところで口を挟んで人間関係を悪くしてきたこともあるので、ただ眺めるだけにしました。
さすがに「B型はその『ある職業』になりやすい性格だ」などという極端な論調ではなかったのですが、「幼いときから『B型は個性的だ』という刷り込みがあるので、個性的な人になりやすいのではないか、(だからそのような職業を目指すのではないか)」というような話の流れでした。

しかしこれも僕にとっては50歩100歩の話で、そもそもその職業の方たちの血液型をどうやって調べたのか知らないけど、血液型がB型であることとその職業に就くことには何の因果関係もないでしょう。
もし仮に、正確な血液型の調査がなされていて、確かにB型の人が多いという相関関係が認められたとしても、そこに因果関係はないでしょう。

このようなことを言うと鬱陶しがられるので、誰かが血液型の話を始めても、たいてい僕は黙って聞いていますが、血液型で人のことをわかったように決めつけるのはやはり差別だと思うんですよね。


辻仁成が1991年に書いて1992年に出版した「ガラスの天井」というエッセイ集を読んで、当時大学生だった僕は安心しました。これこそ僕が感じていることだ、と。

少し長いのですが引用します。


詩人のA氏が突然スタッフの一人に向かって、あなたの血液型は何型?と切り出した。僕はその瞬間、いつも感じるあの耐えられない嫌悪感をまた感じてしまったのだ。場は非常に和んでいて、申し訳ないとは思ったのだが、僕はやはりあえてその問いかけに文句を言ってしまった。
「血液型で人を区別するのは、やめようよ」
(中略)
「国籍で人を区別するのか」とか、体の不自由な人々のことにまで話は拡大していき、興奮した僕は、A氏のことをファシスト!と叫んでしまったのである。
(中略)
一体、この国はどうなっているのだろう、どうしても他人を何かのパターンに押し込めないと気がすまないのであろうか。それはたぶん、他者に対して自由ではないからに違いない。
フランスに行った時に、ちょっと驚いた経験をしたことがある。日本では、自分のことを自らOLだとか、サラリーマンだとか位置づけするが、彼らは決して自分を会社員、OL、主婦などという代名詞でくくらないのである。他人と同一化されることを極端に嫌う国民性ゆえかもしれない。確かにあの国には、個人主義が根づいている。
坂本竜馬のごとく男らしく、とか、女は大和撫子みたいにおしとやかになどと、男女の性を分けるのもまたおかしな話だと思うのだが、男らしさ、女らしさという言葉は、人間らしさという言葉の前には及びもしないのである。
しかし、実際は、そんなことを気にしている人達は非常に少ない。女性雑誌をめくれば必ず、血液型の性格判断という奴が載っているし、日本人の多くが、その尺度を最初の第一印象にすえる場合が増えているのも現状だ。
かの詩人のA氏ほどの人でさえそうなのだから、この傾向はこの幼稚な国ではなくなろうはずがない。
僕はいつまでたっても、O型の辻です、と言い続けなければならないか、もしくは席を立ち続けることになるのだろう。あなたの血液型は何型ですか?というたわいもない質問でさえ、その裏側に潜む個人主義への侵食は見逃せない。
人間のパターンは、人間の数だけ存在するはずだし、地球はそれら無数の個性で成り立っていることを忘れたくない。
相手を、もしくは他者を、それらのパターンから解放してあげる時に、信頼関係の新しい一歩が生まれるような気もする。




僕も学生時代「銀行員や公務員にはなりたくない。大企業も嫌いだ」などと、非常にステレオタイプな物の見方をしていた時期があり、今でも気付くと他者をステレオタイプに見てしまっていることもあります。
でもせめて、そんな自分自身の「ステレオタイプな物の見方」には敏感でありたいと、常々思っています。









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ブランド志向と権威志向

2009年10月13日
いつも通り、本を読みながら昼食を摂っていたのですが、ふと以前から薄々と感じていたことに、また思いが飛んでいました。

それは、

ブランド好きな人は権威主義者なのか

ということです。
これまでの僕の考え(というほどのものではないのですが)は、

ブランド志向≒権威志向

という図式で表せたのですが、これはあくまで「ブランド」を、ヨーロッパの高級ブランドなどに限定して解釈した場合にのみ成り立つものではないかと思います。

しかし例えば僕だって、同じコーラを飲むにしても、「コカ・コーラ」と表示されているものと、ノンブランドのコーラが同じ値段で売っていれば、よほどの事情がない限り「コカ・コーラ」を手に取るでしょう。
これは明らかにブランド力の違いであり、僕はブランドに左右されているということになります。
そしてこのようなブランドの力があればこそ、世の中の会社は、ロゴ開発・ネーミング・商標権の取得などといったことにお金をかけるわけです。
つまりブランドを構築することは、マーケティング上の話だけでなく、人間が本来持っている「依存性」を引き出すという意味において、まっとうな行動なわけです。


そうすると少なくとも僕は、(程度は別として)ある程度のブランド志向を持っているということになるかと思います。
では、僕は権威志向か?

これは自分が権威である場合と、自分が権威を示される場合とによって結論が変わってくるのかなあ、と思います。

昔から僕は権威を誇示されることが大嫌いで、「先生」「大企業」「警察」など、権威の象徴ともいえるようなものに、強い抵抗を感じていました。もちろんそれらの全てが権威志向ではないということは知っていましたが、学校の先生に「もう少し上のレベルの大学も受けてみたら?」と言われると「どうしてですか?僕はこっちの学校に行きたいんです」と言っていたし、「大企業も受けてみたら?」と言う親に対しても、「企業規模は関係なく考えたい」と答えていました。
つまり盲目的に権威に従うことが、とても「イヤ」だったのです。

しかし逆に自分が権威になることはどうか。
これはまだ想像がつきませんが、権威を誇示したり、「○○についての権威」と言われたりすることは望まないように思います。

だけどブランドは必要だと思っています。
特にこれからの時代、会社や出身大学といった古い権威ではなく、自分自身がブランドになり得るか、ということが、仕事で成功するかどうかの分岐点になるかも知れません。

そうすると僕は決してブランドが嫌いというのではなく、ブランドを持つ人や会社などが放つ、嫌味なほどの自己顕示と、それらに盲目的に従う群衆、という図式に嫌悪感を持っていたのかな、と思い至りました。

考えがまだまだ浅い気もしますが、昼休みが終わりそうなので、このへんで。






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