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血液型を知る必要があるのは輸血の時だけだと思う。

2010年02月07日
血液型で人の性格を判断するのはやめようよ。

これは僕が中高生の頃から一貫して思い続けていることです。

「人間がたったの4種類に分けられるわけがない」
「血液型で性格診断をするのは日本人くらいだ」

こんな言葉で、血液型によって人を判断することの滑稽さを主張する人もいます。
僕も確かにそう思います。

特に、尊敬する人や信頼する人が「あいつはB型だから」とか、「君は何型?」などと話すのを聞くと、本当にガッカリします。
こういうことを言うと、「信じてはいないけど、話のネタとして・・」だとか、「信じてはいないけど、多少の傾向はあるよね」などと答える人もいます。

今朝、twitter上で、「ある職業にはB型が多い」という話題がありました。
僕は口を挟みたくなりましたが、そういうところで口を挟んで人間関係を悪くしてきたこともあるので、ただ眺めるだけにしました。
さすがに「B型はその『ある職業』になりやすい性格だ」などという極端な論調ではなかったのですが、「幼いときから『B型は個性的だ』という刷り込みがあるので、個性的な人になりやすいのではないか、(だからそのような職業を目指すのではないか)」というような話の流れでした。

しかしこれも僕にとっては50歩100歩の話で、そもそもその職業の方たちの血液型をどうやって調べたのか知らないけど、血液型がB型であることとその職業に就くことには何の因果関係もないでしょう。
もし仮に、正確な血液型の調査がなされていて、確かにB型の人が多いという相関関係が認められたとしても、そこに因果関係はないでしょう。

このようなことを言うと鬱陶しがられるので、誰かが血液型の話を始めても、たいてい僕は黙って聞いていますが、血液型で人のことをわかったように決めつけるのはやはり差別だと思うんですよね。


辻仁成が1991年に書いて1992年に出版した「ガラスの天井」というエッセイ集を読んで、当時大学生だった僕は安心しました。これこそ僕が感じていることだ、と。

少し長いのですが引用します。


詩人のA氏が突然スタッフの一人に向かって、あなたの血液型は何型?と切り出した。僕はその瞬間、いつも感じるあの耐えられない嫌悪感をまた感じてしまったのだ。場は非常に和んでいて、申し訳ないとは思ったのだが、僕はやはりあえてその問いかけに文句を言ってしまった。
「血液型で人を区別するのは、やめようよ」
(中略)
「国籍で人を区別するのか」とか、体の不自由な人々のことにまで話は拡大していき、興奮した僕は、A氏のことをファシスト!と叫んでしまったのである。
(中略)
一体、この国はどうなっているのだろう、どうしても他人を何かのパターンに押し込めないと気がすまないのであろうか。それはたぶん、他者に対して自由ではないからに違いない。
フランスに行った時に、ちょっと驚いた経験をしたことがある。日本では、自分のことを自らOLだとか、サラリーマンだとか位置づけするが、彼らは決して自分を会社員、OL、主婦などという代名詞でくくらないのである。他人と同一化されることを極端に嫌う国民性ゆえかもしれない。確かにあの国には、個人主義が根づいている。
坂本竜馬のごとく男らしく、とか、女は大和撫子みたいにおしとやかになどと、男女の性を分けるのもまたおかしな話だと思うのだが、男らしさ、女らしさという言葉は、人間らしさという言葉の前には及びもしないのである。
しかし、実際は、そんなことを気にしている人達は非常に少ない。女性雑誌をめくれば必ず、血液型の性格判断という奴が載っているし、日本人の多くが、その尺度を最初の第一印象にすえる場合が増えているのも現状だ。
かの詩人のA氏ほどの人でさえそうなのだから、この傾向はこの幼稚な国ではなくなろうはずがない。
僕はいつまでたっても、O型の辻です、と言い続けなければならないか、もしくは席を立ち続けることになるのだろう。あなたの血液型は何型ですか?というたわいもない質問でさえ、その裏側に潜む個人主義への侵食は見逃せない。
人間のパターンは、人間の数だけ存在するはずだし、地球はそれら無数の個性で成り立っていることを忘れたくない。
相手を、もしくは他者を、それらのパターンから解放してあげる時に、信頼関係の新しい一歩が生まれるような気もする。




僕も学生時代「銀行員や公務員にはなりたくない。大企業も嫌いだ」などと、非常にステレオタイプな物の見方をしていた時期があり、今でも気付くと他者をステレオタイプに見てしまっていることもあります。
でもせめて、そんな自分自身の「ステレオタイプな物の見方」には敏感でありたいと、常々思っています。









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Comment
No title
すごくわかりますね、おっしゃりたいこと。すぐ外国と比較するな!と言われますが、朝の報道系番組で星座占いがあったり、ゴールデンタイム以降で占い師がメインのスピリチュアルだのそういう系統の番組が結構な視聴率を稼ぐ国ってのはそうそうないのではないでしょうか(笑)。日本は無宗教なんて言われますけど、やっぱ人間みんなそんな強くないわけで、何かに頼る存在が必要で、それがこういったものが流行っては消える理由なのでは、というふうに私は考えていたりします。欧米じゃ当たり前にキリスト教がその役割を担っているわけですが、日本にはその代わり多神教とアニミズムという土台はあるので、よくわからないものは批判の前に(疑似科学とか:マイナスイオンだの)安易に流行ったりしちゃうっていう。
差別問題については、教育かな、とか思います。臭いものには蓋ではないですが、こうした問題に面と向かう・考える機会って他先進国に比べてダントツに少なくて、形式的な授業で生徒が皆心にもない優等生的な言葉並べて終わり、みたいなものがほとんどなんじゃないでしょうか。
大学の授業で、フランス語の小中学校の教科書みたいのを読むというのがあって、それが1冊まるごと差別について書かれたものであって結構驚いたことがあります。父と子が差別について語り合う的なものだったのですが、これを幼少のころから現実のものとして向き合わせているという教育制度がある事実に、大きな衝撃を受けました。国籍と違い、血液型というのは本人でどうしようもない先天的なものですから、差別と容易につながるものであるのに、それさえ気づくことがないんですよね、そういう教育を受けないから(利用の仕方によっては優秀な人間=○○型、劣った人間=○○型、って分別されることにもつながりかねないのですが)。

アラサー法務さんへ
最近あちらこちらで「謎の男」として話題のアラサー法務さん、おはようございます。

欧米ではむしろ星占いが主流だとは聞きますが、体に流れている血で区別されるのは、やはり気持ちいいものではないですよね。

僕もイタリアやフランスの教科書の話は聞いたことがあります。
塩野七生さんの本だったと思うのですが、イタリアの教科書は「リーダーになるには」ということがずーっと書いてある、と。

本当に必要なことを自分の頭でしっかり考えさせる教育が行われているのだろうと思います。

国民や社員が愚かな方が治めやすい、という時代は終わっていると思うのですけどね。

ではでは。

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