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おばさんとの長い別れ

2010年07月11日
その叔母さんのことを僕は、ふみよねえちゃん、と呼んでいた。
いつ気付いたのかは覚えていないが、叔母さんの名前はふみさんなので、ふみおねえちゃんと呼ぶべきだったのだと思う。
いずれにしても、僕のおじさんやおばさんの中では一番若くて、僕が子供の頃にはまだ、おねえさんと呼ぶような叔母さんだった。
そして僕はいつからか忘れたがその叔母さんを、ふみさん、と呼ぶようになっていた。


ふみさんは旦那さん、つまり僕の叔父さんの仕事の関係で、ずっと中国に住んでいた。
僕が生まれた頃にはもう中国にいたと思う。
中国から帰省してきたときには、僕の家に泊まることが多かったように思う。
僕の母親が、弟である叔父さんをとても大事にしていたので、泊まるように勧めていたのかもしれない。

僕が小学校4年生まで使っていた部屋は、居間として家族が寛ぐ部屋でもあったし、両親の寝室でもあった。
その部屋には、ふみさんと叔父さんが海辺で並んで撮られた白黒写真が、額に入れて飾ってあったのを覚えている。
ふみさんが泊まりにくると、その子供たち、つまり僕のいとこが一緒に来るのが嬉しくて、僕は兄貴気取りで一緒に遊んでいた。


ふみさんはとても明るい人で、いつも笑っていた。
そして人と話すときでもいつも、叔父さんのことを、お父さんとか、夫とかではなく、名前をさん付けで呼んでいた。
ふみさんは叔父さんのことを話すとき、いつもこう言っていた。
「○○さんは本当に優しくて、私はとても幸せなの」
本当にいつもそう言っていた。
僕が幼いときから言っていたし、僕が結婚して子供を持ってからも同じように言っていた。
そんなとき叔父さんはいつも横で照れ笑いをしていた。


叔父さんも立派な人だった。
中国から日本に戻ってきてしばらくして、また中国に転勤することが決まったとき、子供たち3人は中学生や高校生だった。
叔父さんは単身赴任をしようと考えていたらしいが、子供たちがこう言ったそうだ。
「僕たちはお父さんが行くところについていく」
僕はこの話を聞いて本当にびっくりした。
僕の辞書の中には「お父さんについていく」なんて言葉は載っていなかったからだ。
叔父さんはとても忙しい人だったが、子供の野球の試合の日などは万難を排して駆けつけていたそうだ。
僕が知っている数少ない、仕事と家庭を両方大切にするお父さんだ。
叔父さんの家庭はとても愛に溢れていた。

ふみさんは40代くらいの若いときにリウマチに罹った。
今思うとそれが理由なのかも知れないが、ふみさんたち家族は日本に帰ってきた。
そして叔父さんの稼ぎからすると不思議なくらい、東京都心から離れた小さなマンションに住んだ。
そしてそこで家族5人で暮らすようになった。

僕が東京の大学に行くことになり、住むところを探すために兄と二人で東京に出てきたときは、ふみさんの家に泊めてもらった。
僕が結婚する前、嫁さんを紹介するためにふみさんの家を訪ねたときは、食べきれないほどの料理を作ってもてなしてくれた。
そのときもやっぱりふみさんは笑顔で、「○○さんは本当に優しい人で、私は幸せなのよ」と言っていた。


ふみさんのリウマチは段々ひどくなり、僕の子供が生まれた7年前には歩くこともままならないようになっていた。
でもふみさんは、僕の子供に会うために、遠くから病院まで来てくれた。
杖をついて、叔父さんの腕に支えられながら。
そのときもふみさんはやっぱり笑顔で、産まれたばかりの僕の子供に声をかけてくれていた。


僕が数年前、体調を崩して仕事をしていなかった時期、ふみさんはとても心配してくれていた。
叔父さんとふみさんは、無期限無利息の出世払いでお金を貸してくれる、と言ってくれた。
何とかそれは借りずに済んだが、僕がまた働き始めたときにはとても喜んでくれた。
そのときに叔父さんが「復帰祝いに食事に行こう」と誘ってくれたのに、ちょっとした理由で遠慮した不義理を、僕は今でも反省している。


ふみさんは2年近く前、ガンに罹った。
入院して手術をして、自宅に戻ったと聞いていた。
僕はその頃、仕事と家庭で手一杯だったことと、訪問すると却って疲れさせてしまうのではないかと考えて、お見舞いに行かなかった。
大きくなった長男を見せに行きたい気持ちも強かったが、またの機会にすることにした。


今年の5月、ふみさんが入院しているという話を母親から聞いた。
そして医者から「あと一週間の命」と言われているということを聞いた。


だけどしばらくして今度は、ふみさんが退院したという話を聞いた。
不思議なこともあるものだ、と思うと同時に、愛に溢れた家族に守られているふみさんだから、そういうことがあっても当然のようにも感じていた。


僕は特定の宗教を信じているわけではないが、台所の流しの前にある出窓を神棚に見立て、毎日お猪口に水を入れてお供えしている。
そして手を合わせて家族一人ひとりの顔を思い浮かべながら健康を祈っている。
神様に祈るというわけではないが、何かわからないけど「大きな力を持つ何か」に祈っている。
そしてこの2ヶ月は、思い浮かべる顔にふみさんが加わっていた。

数日前、母親から電話があった。
ふみさんが「もう延命措置をやめてほしい。そして最期にみんなに会いたい」と言ったとのことだった。

昨日福岡から、僕の両親を含め、おじさんやおばさんたちが、ふみさんに会いに上京してきた。
僕も嫁さんと子供たちを連れて、車で2時間ちょっとかけて、ふみさんの家に行った。
東京に住む僕のきょうだいも、家族を連れてふみさんの家に集まってきた。


部屋に入ると、これまでソファーが並んでいた場所に大きな介護用のベッドが置いてあり、そこにふみさんが横になっていた。
まだ50代のふみさんは、すっかりやせ細って、髪も白いものが多くなっていた。
点滴を受け、鼻から酸素を送り込まれているふみさんは、朦朧としているようだった。

肺に穴があいているそうで、肺のあたりを手で軽く押してあげないと、しゃべれないとのことだった。
僕の母親がふみさんの肺のあたりを手で押しながら、話しかけていた。
でもふみさんの言葉はあまりにか細く、殆んど聞き取れない。

皆で順番にふみさんと話をした。
姉は泣きながら話しかけていたが、僕はつらくて見ていられなかったし、聞くこともできなかった。
兄が話をしたあと、僕はふみさんと話をした。

リウマチで曲がってしまった指、すっかり細くなってしまった腕、そんなふみさんの手を両手で包んで話しかけた。
7年前、長男が生まれたときに会いに来てくれたことが本当に嬉しかったことを伝え、長男を抱えてふみさんに見せた。
意識が朦朧としているふみさんが、ニッコリと嬉しそうに微笑んでくれた。
そして初めて顔をみせる長女を抱えて見せた。
やっぱりふみさんは嬉しそうに微笑んだ。

ふみさんに伝えたいことは、手紙に書いてお見舞金の袋に入れておいた。
あまりゆっくり話す時間と元気がないだろうと思っていたので、叔父さんが後で読んでくれることを期待してのものだ。

ふみさんと話をした短い時間、ふみさんが一生懸命かすれた声で僕に伝えてきたことがある。
最初は聞き取れなかったが、口元に耳を近づけて何とかわかった。
「私はもうすぐいなくなるから、○○さんが一人になってしまう。それがとても心配だ」
ふみさんは最後まで、残される夫のことを心配しているのだ。
僕は何度も「大丈夫です。僕たちがいますから、安心してください」と繰り返した。
ふみさんはまたニッコリ微笑んでいた。
僕は最後に「また会いましょう」と言った。


ヘルパーさんが来て、ふみさんの顔や手を拭いていると、ふみさんは眠ったようすで、目を閉じていた。
僕たちは長居をするのも悪いので帰ることにして玄関に向かった。
皆が玄関で靴を履いているのを待つ間、僕はふみさんのことを少し離れたところから見ていた。

僕はふみさんへの手紙に、

よき人間をつくることは人生の最も美しい仕事の一つである。



という武者小路実篤の言葉を書いた。
そして、叔父さんを笑顔で支え、立派な子供たちを育てたふみさんは、最高に美しい仕事をしたのだと書いた。

そして、

愛の星の輝くところ、死にゆくものの目にも涙がながれるのを見る。
愛されること何ぞ嬉しき、
愛すること何ぞ嬉しき。



という、同じく実篤の言葉を書いて、家族を愛し家族に愛されることの素晴らしさを教えてくれたふみさんにお礼の言葉を書いておいた。


そんな言葉を思い出しながらふみさんを見ていると涙が溢れてきて、もう一度僕はふみさんのところに急いで戻った。
そしてふみさんのおでこや頬を撫でながら、「ふみさんほど幸せな人を僕は知りません。本当にありがとう。また会いましょう」と何度も言った。気付くと嫁さんも横に立っていた。
ふみさんの腕は、筋肉がすっかり落ちていて、生まれたばかりの長男のふくらはぎの柔らかさを思い出した。
眠っていたふみさんは目を開けてまたニッコリと微笑んだ。
僕は感謝の言葉を伝えて、もう振り返らずに玄関に向かった。


帰りの首都高速は渋滞していて、嫁さんも子供たちも眠ってしまっていた。
僕は長男が生まれたときのことを思い出していた。
前にも書いたことがあると思うが、なかなか産まれてこない長男のため、そのとき嫁さんの体はすっかり弱っていた。
僕は嫁さんが心配で病院の廊下のソファーで夜を明かしたりしていた。
そのとき、そのソファーの後ろの壁には大きな絵が飾ってあった。
長渕剛の絵だった。
その病院は、長渕剛の子供が生まれた病院でもあった。

長渕剛の「NEVER CHANGE」という曲は、その病院で彼の娘さんが産まれたときのことを歌ったものだ。

僕は特に彼のファンというわけでもないが、中学生の頃に発売された「昭和」というアルバムは好きで、カーナビのHDDにも入れてあった。
その中に「NEVER CHANGE」が入っているので、久しぶりに聞いた。


深夜4時東京の街俺は本気で泣いた
消し忘れたワイパーもなぜかそのままでいい
片手でハンドルつかみ片手でボリュームしぼりながら
優しさってやつを俺は初めて考えた

 Never Change ただ続くだけでいい
 Never Change 今まで生きてきた人生(みち)
 Never Change 血はめぐりめぐって
 Never Change それは変わることなく



そんな言葉を噛み締めた。


僕はこれまで子供に涙を見せないようにしていたが、ふみさんと最初に話をしたときに、僕の目から少しだけ涙が出ていたことに長男は気付いていた。
帰りに外食をしたとき、長男が「どうして泣いてたの?」と聞いてきた。
「とても優しい叔母さんに、もう会えないかも知れないからだよ」と答えると、今度は長女が聞いてきた。
「じゃあどうして、また会おうねって言ってたの?」
僕は、「もしかしたらまた会えるかも知れないし、もし叔母さんが天国に行ったとしても、いつかまた天国で会えるからだよ」と答えた。

ふみさんは本当に、大きなものを残してくれた。
そしていろいろなことを教えてくれた。
笑顔、幸せ、そして家族への愛情の美しさ。

僕は、ふみさんが人を悪くいうのを聞いたことがないし、病気のつらさを聞くこともなかった。
本当にいつかまたどこかで会いたいと思う。


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これは、ごくごく私的なことだし、ここに書くようなことではないかも知れない。
だけどどうしても昨日のことをここに残しておきたくて書いた。
これを読んでイヤな思いをする方が、もしかするといるかも知れないが、許してもらいたい。
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