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円覚寺に寄ってから海水浴に行ってきました。

2010年07月19日
この3連休は、特にどこかに出掛ける予定もなかったのですが、朝ごはんを食べているときに嫁さんが、
「鎌倉に行きたい」
と言い出したので、昨日はお昼頃から鎌倉に向かいました。

絶好の海水浴日和だけに、道が混んでいることを予想していたのですが、案外空いていました。
家を出て約1時間、円覚寺に到着しました。

先日は鎌倉五山第一位(というのがどのくらいスゴイのかはよく知らない)の建長寺に行ったのですが、今回は第二位の円覚寺です。

円覚寺といえば舎利殿という言葉が頭に浮かぶのは、大学受験で日本史を選択した方であれば、割と共通しているところなのではないかと思います。
私もご多分に漏れず、円覚寺舎利殿なるものを楽しみにしていました。

しかし残念。
門より中に入ることはできず、遠くから建物を拝むことしかできませんでした。

舎利殿_convert_20100719081948
(この門の奥が舎利殿。門から50mほど奥に舎利殿が見えました)

円覚寺全体に言えることですが「立入禁止」がやけに多く、どうもこう「Welcome」な感じではなかったですね。
その点、先日行った建長寺は非常にホスピタリティ溢れる(?)お寺でした。


とはいえ、仏日庵というところには別料金を払えば入れるのですが、座ってゆっくりお茶を飲むことができる静かな場所で、子連れでなければ(笑)、ここで雰囲気を味わいながら思索にふけったり会話を楽しんだりするのもいいのではないかと思うようなところでした。

下の写真は方丈という建物の裏庭です。
方丈裏庭_convert_20100719082053


わが家は以前からよく神社やお寺に行くのですが、特に特定の宗教を信仰しているわけではありません。
(キリスト教の日曜礼拝やクリスマス会にお呼ばれされて出掛けていくことすらあります)

しかし以前からとても気になっていた「御朱印」なるもの。
「御朱印帳」という1,000円ちょっとで売っている、蛇腹式というか屏風式というか、例えは悪いかも知れませんが「スタンプ帳」のようなものに、神社やお寺の印を押してもらうものです。
たいていは300円ほど納めて、印を押してもらうようですが、今回私の分と妻の分とをついに買いました。
表紙には大きく「仏心 円覚寺」と書いてある立派なものです。


ところで、円覚寺の御朱印帳やお守りの販売所の方は、何だかこう非常に世俗的な感じのおじさんとおばさんで、これがまた非常に大きな声で雑談をしていて、「どこの誰がどうした」だの、「今日は何時あがり」だのという会話をしていました。
「このおじさんに印をもらうのか・・・」としばし躊躇しながら、蜜蝋などを眺めていましたが、「まぁ、いっか」と思い直し、人生初の御朱印帳と御朱印を頂きました。

でもやはりこのおじさん、御朱印帳に日付や私の名前を書いている最中、長男が手に持った御朱印帳の「見本」を、「あぁ!それはそっちに持って行かないでね!」と注意したり、お金を払うところに敷いてある小さな布を長女が少しずらすと、「あぁ!これはずらさないでね!」と注意したりと、まったく集中してくれないんですね。
何だかありがたみがなくて少し残念でした。
ちなみに筆と硯が脇に置いてあるにもかかわらず、筆ペンで日付を書いてくださるというのも、少々興ざめな気がします。

「建長寺で買えばよかった・・・」
と、私にしては珍しく後悔してしまいました。



さてさて、鎌倉に行くと冬だろうが何だろうが必ず行くのが湘南の海。
今回ももちろん行ってきました。
長男、長女と私の水着を持っていっていたので、夕方4時半頃から海水浴開始です。
長女はある理由があって、海を非常に怖がるので波打ち際をウロウロするばかり。

長男と私はおおはしゃぎです。
泳いだり逆立ちしたりグルグル回転したりと、クタクタになるまで遊びました。

子供が生まれてからは全く行かなくなってしまったサーフィンですが、海に行くとやりたくなりますね。
一時期は冬の2月であろうが何だろうが、休みの日は朝4時頃家を出て、毎週毎週海に通っていました。

長男が生まれたときに河村正美プロにシェイプしてもらったサーフボードには、嫁さんと長男の名前を入れてもらったのですが、今では嫁さんの実家の駐車場で眠っています・・・

長男がもう少し大きくなったら一緒にやろうかな、なんて考えていますが、ウェットスーツは全く入らなくなったので先日全部捨ててしまいました。
ラッシュガードすら入らなくなってしまった自分の太りようが悲しい今日この頃です。
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おばさんとの長い別れ

2010年07月11日
その叔母さんのことを僕は、ふみよねえちゃん、と呼んでいた。
いつ気付いたのかは覚えていないが、叔母さんの名前はふみさんなので、ふみおねえちゃんと呼ぶべきだったのだと思う。
いずれにしても、僕のおじさんやおばさんの中では一番若くて、僕が子供の頃にはまだ、おねえさんと呼ぶような叔母さんだった。
そして僕はいつからか忘れたがその叔母さんを、ふみさん、と呼ぶようになっていた。


ふみさんは旦那さん、つまり僕の叔父さんの仕事の関係で、ずっと中国に住んでいた。
僕が生まれた頃にはもう中国にいたと思う。
中国から帰省してきたときには、僕の家に泊まることが多かったように思う。
僕の母親が、弟である叔父さんをとても大事にしていたので、泊まるように勧めていたのかもしれない。

僕が小学校4年生まで使っていた部屋は、居間として家族が寛ぐ部屋でもあったし、両親の寝室でもあった。
その部屋には、ふみさんと叔父さんが海辺で並んで撮られた白黒写真が、額に入れて飾ってあったのを覚えている。
ふみさんが泊まりにくると、その子供たち、つまり僕のいとこが一緒に来るのが嬉しくて、僕は兄貴気取りで一緒に遊んでいた。


ふみさんはとても明るい人で、いつも笑っていた。
そして人と話すときでもいつも、叔父さんのことを、お父さんとか、夫とかではなく、名前をさん付けで呼んでいた。
ふみさんは叔父さんのことを話すとき、いつもこう言っていた。
「○○さんは本当に優しくて、私はとても幸せなの」
本当にいつもそう言っていた。
僕が幼いときから言っていたし、僕が結婚して子供を持ってからも同じように言っていた。
そんなとき叔父さんはいつも横で照れ笑いをしていた。


叔父さんも立派な人だった。
中国から日本に戻ってきてしばらくして、また中国に転勤することが決まったとき、子供たち3人は中学生や高校生だった。
叔父さんは単身赴任をしようと考えていたらしいが、子供たちがこう言ったそうだ。
「僕たちはお父さんが行くところについていく」
僕はこの話を聞いて本当にびっくりした。
僕の辞書の中には「お父さんについていく」なんて言葉は載っていなかったからだ。
叔父さんはとても忙しい人だったが、子供の野球の試合の日などは万難を排して駆けつけていたそうだ。
僕が知っている数少ない、仕事と家庭を両方大切にするお父さんだ。
叔父さんの家庭はとても愛に溢れていた。

ふみさんは40代くらいの若いときにリウマチに罹った。
今思うとそれが理由なのかも知れないが、ふみさんたち家族は日本に帰ってきた。
そして叔父さんの稼ぎからすると不思議なくらい、東京都心から離れた小さなマンションに住んだ。
そしてそこで家族5人で暮らすようになった。

僕が東京の大学に行くことになり、住むところを探すために兄と二人で東京に出てきたときは、ふみさんの家に泊めてもらった。
僕が結婚する前、嫁さんを紹介するためにふみさんの家を訪ねたときは、食べきれないほどの料理を作ってもてなしてくれた。
そのときもやっぱりふみさんは笑顔で、「○○さんは本当に優しい人で、私は幸せなのよ」と言っていた。


ふみさんのリウマチは段々ひどくなり、僕の子供が生まれた7年前には歩くこともままならないようになっていた。
でもふみさんは、僕の子供に会うために、遠くから病院まで来てくれた。
杖をついて、叔父さんの腕に支えられながら。
そのときもふみさんはやっぱり笑顔で、産まれたばかりの僕の子供に声をかけてくれていた。


僕が数年前、体調を崩して仕事をしていなかった時期、ふみさんはとても心配してくれていた。
叔父さんとふみさんは、無期限無利息の出世払いでお金を貸してくれる、と言ってくれた。
何とかそれは借りずに済んだが、僕がまた働き始めたときにはとても喜んでくれた。
そのときに叔父さんが「復帰祝いに食事に行こう」と誘ってくれたのに、ちょっとした理由で遠慮した不義理を、僕は今でも反省している。


ふみさんは2年近く前、ガンに罹った。
入院して手術をして、自宅に戻ったと聞いていた。
僕はその頃、仕事と家庭で手一杯だったことと、訪問すると却って疲れさせてしまうのではないかと考えて、お見舞いに行かなかった。
大きくなった長男を見せに行きたい気持ちも強かったが、またの機会にすることにした。


今年の5月、ふみさんが入院しているという話を母親から聞いた。
そして医者から「あと一週間の命」と言われているということを聞いた。


だけどしばらくして今度は、ふみさんが退院したという話を聞いた。
不思議なこともあるものだ、と思うと同時に、愛に溢れた家族に守られているふみさんだから、そういうことがあっても当然のようにも感じていた。


僕は特定の宗教を信じているわけではないが、台所の流しの前にある出窓を神棚に見立て、毎日お猪口に水を入れてお供えしている。
そして手を合わせて家族一人ひとりの顔を思い浮かべながら健康を祈っている。
神様に祈るというわけではないが、何かわからないけど「大きな力を持つ何か」に祈っている。
そしてこの2ヶ月は、思い浮かべる顔にふみさんが加わっていた。

数日前、母親から電話があった。
ふみさんが「もう延命措置をやめてほしい。そして最期にみんなに会いたい」と言ったとのことだった。

昨日福岡から、僕の両親を含め、おじさんやおばさんたちが、ふみさんに会いに上京してきた。
僕も嫁さんと子供たちを連れて、車で2時間ちょっとかけて、ふみさんの家に行った。
東京に住む僕のきょうだいも、家族を連れてふみさんの家に集まってきた。


部屋に入ると、これまでソファーが並んでいた場所に大きな介護用のベッドが置いてあり、そこにふみさんが横になっていた。
まだ50代のふみさんは、すっかりやせ細って、髪も白いものが多くなっていた。
点滴を受け、鼻から酸素を送り込まれているふみさんは、朦朧としているようだった。

肺に穴があいているそうで、肺のあたりを手で軽く押してあげないと、しゃべれないとのことだった。
僕の母親がふみさんの肺のあたりを手で押しながら、話しかけていた。
でもふみさんの言葉はあまりにか細く、殆んど聞き取れない。

皆で順番にふみさんと話をした。
姉は泣きながら話しかけていたが、僕はつらくて見ていられなかったし、聞くこともできなかった。
兄が話をしたあと、僕はふみさんと話をした。

リウマチで曲がってしまった指、すっかり細くなってしまった腕、そんなふみさんの手を両手で包んで話しかけた。
7年前、長男が生まれたときに会いに来てくれたことが本当に嬉しかったことを伝え、長男を抱えてふみさんに見せた。
意識が朦朧としているふみさんが、ニッコリと嬉しそうに微笑んでくれた。
そして初めて顔をみせる長女を抱えて見せた。
やっぱりふみさんは嬉しそうに微笑んだ。

ふみさんに伝えたいことは、手紙に書いてお見舞金の袋に入れておいた。
あまりゆっくり話す時間と元気がないだろうと思っていたので、叔父さんが後で読んでくれることを期待してのものだ。

ふみさんと話をした短い時間、ふみさんが一生懸命かすれた声で僕に伝えてきたことがある。
最初は聞き取れなかったが、口元に耳を近づけて何とかわかった。
「私はもうすぐいなくなるから、○○さんが一人になってしまう。それがとても心配だ」
ふみさんは最後まで、残される夫のことを心配しているのだ。
僕は何度も「大丈夫です。僕たちがいますから、安心してください」と繰り返した。
ふみさんはまたニッコリ微笑んでいた。
僕は最後に「また会いましょう」と言った。


ヘルパーさんが来て、ふみさんの顔や手を拭いていると、ふみさんは眠ったようすで、目を閉じていた。
僕たちは長居をするのも悪いので帰ることにして玄関に向かった。
皆が玄関で靴を履いているのを待つ間、僕はふみさんのことを少し離れたところから見ていた。

僕はふみさんへの手紙に、

よき人間をつくることは人生の最も美しい仕事の一つである。



という武者小路実篤の言葉を書いた。
そして、叔父さんを笑顔で支え、立派な子供たちを育てたふみさんは、最高に美しい仕事をしたのだと書いた。

そして、

愛の星の輝くところ、死にゆくものの目にも涙がながれるのを見る。
愛されること何ぞ嬉しき、
愛すること何ぞ嬉しき。



という、同じく実篤の言葉を書いて、家族を愛し家族に愛されることの素晴らしさを教えてくれたふみさんにお礼の言葉を書いておいた。


そんな言葉を思い出しながらふみさんを見ていると涙が溢れてきて、もう一度僕はふみさんのところに急いで戻った。
そしてふみさんのおでこや頬を撫でながら、「ふみさんほど幸せな人を僕は知りません。本当にありがとう。また会いましょう」と何度も言った。気付くと嫁さんも横に立っていた。
ふみさんの腕は、筋肉がすっかり落ちていて、生まれたばかりの長男のふくらはぎの柔らかさを思い出した。
眠っていたふみさんは目を開けてまたニッコリと微笑んだ。
僕は感謝の言葉を伝えて、もう振り返らずに玄関に向かった。


帰りの首都高速は渋滞していて、嫁さんも子供たちも眠ってしまっていた。
僕は長男が生まれたときのことを思い出していた。
前にも書いたことがあると思うが、なかなか産まれてこない長男のため、そのとき嫁さんの体はすっかり弱っていた。
僕は嫁さんが心配で病院の廊下のソファーで夜を明かしたりしていた。
そのとき、そのソファーの後ろの壁には大きな絵が飾ってあった。
長渕剛の絵だった。
その病院は、長渕剛の子供が生まれた病院でもあった。

長渕剛の「NEVER CHANGE」という曲は、その病院で彼の娘さんが産まれたときのことを歌ったものだ。

僕は特に彼のファンというわけでもないが、中学生の頃に発売された「昭和」というアルバムは好きで、カーナビのHDDにも入れてあった。
その中に「NEVER CHANGE」が入っているので、久しぶりに聞いた。


深夜4時東京の街俺は本気で泣いた
消し忘れたワイパーもなぜかそのままでいい
片手でハンドルつかみ片手でボリュームしぼりながら
優しさってやつを俺は初めて考えた

 Never Change ただ続くだけでいい
 Never Change 今まで生きてきた人生(みち)
 Never Change 血はめぐりめぐって
 Never Change それは変わることなく



そんな言葉を噛み締めた。


僕はこれまで子供に涙を見せないようにしていたが、ふみさんと最初に話をしたときに、僕の目から少しだけ涙が出ていたことに長男は気付いていた。
帰りに外食をしたとき、長男が「どうして泣いてたの?」と聞いてきた。
「とても優しい叔母さんに、もう会えないかも知れないからだよ」と答えると、今度は長女が聞いてきた。
「じゃあどうして、また会おうねって言ってたの?」
僕は、「もしかしたらまた会えるかも知れないし、もし叔母さんが天国に行ったとしても、いつかまた天国で会えるからだよ」と答えた。

ふみさんは本当に、大きなものを残してくれた。
そしていろいろなことを教えてくれた。
笑顔、幸せ、そして家族への愛情の美しさ。

僕は、ふみさんが人を悪くいうのを聞いたことがないし、病気のつらさを聞くこともなかった。
本当にいつかまたどこかで会いたいと思う。


-------
これは、ごくごく私的なことだし、ここに書くようなことではないかも知れない。
だけどどうしても昨日のことをここに残しておきたくて書いた。
これを読んでイヤな思いをする方が、もしかするといるかも知れないが、許してもらいたい。
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BLJと言えば?

2010年05月25日
ふと気づいたことを5分でメモ。

「BLJ」というと、このBlogをよく訪問してくださっている方なんかだとおそらく、「Business Law Journal」の略だと思われるのではないかと思います。
私もそうです。

しかし最近少し雰囲気が変わって垢抜けた感のある、「金融法務事情」さん。
よくみると表紙の一番上に「Banking Law Journal」と書いてあります。
そして目次をよくみると、「BLJ通信」とあります。


商標権はどうなっているのかなぁ?
と思い、IPDLで調べてみたところ、両者とも商標登録はされていないようです。


以上、本当に単なるメモでした。


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バリウムを苦もなく飲むためのたった1つの方法

2010年05月22日
今週は会社の定期健康診断がありました。
今の会社に入ってから3回目の健康診断です。

「前日は飲酒禁止、20時以降の食事も禁止、当日は水も禁止」

という、非人道的な「約束事」が病院からの案内に書かれていましたが、一つも守ることができませんでした。
「約束事」とはいえ、私に約束した覚えはないので、まあよしとしましょう。


さて、健康診断でいつもイヤなのが「胃部X線検査」なるもの。
つまりあれですね。バリウムを飲まされて、台の上に乗せられた上に、グルグル回されて、挙句の果てに胃の写真を撮られるやつです。

私は、というよりも、たいていの方は、このやはり非人道的な検査がキライなのではないかと思います。

ご存知ない方のために、簡単にこの検査の流れをご説明しましょう。


まずは「hiroさーん!」などと、病院の係の方に呼ばれます。
そして、重そうな鉄のドアが開かれ、およそ10畳ほどの静かな部屋に通されます。

中に入ると、部屋の真ん中に、やけに大げさな鉄製の機械がドーンと鎮座しています。
「こいつがオレを検査するのだな」
ということはすぐに理解できます。

そして左に目をやると、ガラス窓の向こうに人が座っていて、こちらを見ています。この人のことを便宜上、操作官と呼ぶことにします。ガラス窓の向こうの別室から機械を遠隔操作しますから。

「台の上に立って下さい」
操作官はマイクを通して私に指示を出します。
彼の声はスピーカーを通して、私のいる部屋に響き渡ります。
映画「インディペンデンス・デイ」で、ダウンしてしまっているゲテモノ宇宙人を、ガラス越しに検査するシーンがあったように思うのですが、あんな感じです。

台の上に立った私に、操作官の助手が近づいてきて「炭酸の顆粒」と、「よくわからない茶色の液体」を手渡します。
「炭酸をこの液体で飲んでください。飲んだ後は決してゲップをしてはなりません」
助手はそのようなことを必ずいいます。

しかしよく考えてみてください。
あなたはコカ・コーラを一気のみした後、ゲップを我慢できますか?
想像するだに苦しいですよね。
「炭酸の顆粒」は、コカ・コーラとは比較にならないほどの「ゲップの元」です。
それを飲んでおいて「ゲップを我慢しろ」とはかなりムチャな話であることが、以上からご理解頂けるでしょう。

しかし本当の悪夢はここから始まります。

ゲップを我慢した状態で、バリウムを飲むのです。
バリウムはスターバックスコーヒーのグランデサイズです。
ややヨーグルトのような味付けがされたりしていて、飲みやすいように工夫はされているのですが、重たいというかなんというか、「のどごしが悪くて飲みづらい」んですよね。

そして胃が、炭酸の顆粒でパンパンに膨れた上にバリウムが流し込まれたまま、検査が始まります。

はじめに立っていた台が横倒しになり、
「はい、そこで右にグルグルと3回、素早くまわってください」と、やはりスピーカー越しに操作官から指示されます。
私は素直に台の上でグルグルと3回まわります。
何だか少し切なくて悔しい気持ちになります。
「オレはモルモットじゃないし、ましてやゲテモノ宇宙人でもない」と。
3回まわった後に「ワンと鳴いてください」とか言われたら、それが冗談であっても私は許しません。
もちろん操作官は、そんな面白いことは言いませんが。

そしてその後、台は上がったり下がったり回ったり・・・つまり足が上になったり右肩が上になったり左肩が上になったりと、もはや操作官の為すがままです。

しばらくすると、機械が元に戻り、私は立っている状態に戻されます。
そして、
「ではバリウムを全部飲み干してください」
という、鬼のような指示が出されます。
飲みきるまでここから逃げられないのです。
ガラスの向こうでは操作官が「早く飲めや、ケケケ・・・」とばかりに、こちらを見ています。
そんなとき、小学生時代のあるシーンが私の脳裏をよぎります。
給食を食べきれず、休み時間になっても一人寂しくニンジンと格闘していた惨めな友達の悲しそうな目です。

さて、何とかバリウムを全て飲みきった後、さらに台の上でグルグル回されますが、その時点ではすでに
「もうどうにでもして下さい」と、精神的には完全に操作官に屈服してしまっています。

最後にまた私は立っている状態に戻されます。
そして何だかさっぱり意味がわからないのですが、「棒」がウイーンと機械から出てきて、私の胃のあたりを何度か押したりします。これは屈辱的です。
遠隔操作で、しかもなんだかよくわからない「棒」で体をつつかれるのです。
非常に屈辱的です。

「はい、お疲れ様でした」
操作官は私をようやく解放してくれます。

操作官の助手がどこからともなくまた現れて、「そちらの洗面所で顔を洗ってください」と言います。
洗面所の鏡に映った私の顔には、「バリウムのひげ」ができています。
情けない・・・


ずいぶんと長くなってしまいましたが、以上のような流れで「胃部X線検査」なるものが完了します。



さて、次に私と「胃部X線検査」の出会いについて少し書きたいと思います。

10年近く前、私にはかなり体調の悪い時期がありました。
そのときはとにかく吐き気がひどかったのですが、吐き気の原因がわからなかったので、
「とりあえず胃の検査をしましょう」
と医者に言われました。
そして初めて、その非人道的な検査を経験したのです。

ここだけの話ですが、最初は「胃カメラ」による内視鏡検査に挑戦しました。
バリウムもツライですが、私にとって「胃カメラ」など言語道断。
テレビの電源コードほどの太さのホースの先にカメラが付いていて、それを口から胃まで入れるのです。
こんなことができるのは「びっくり人間」くらいです
もはや悪魔の所業といわざるを得ない検査方法です。
※最近はもう少し細くなっていて、鼻から入れることもあるようです

「胃カメラ」と聞くと私の頭には、
 

第36条 公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。



という、日本国憲法の条文が頭に浮かんでしまうほどです。


10年前の検査の日、私は胃カメラがノドのあたりまで入った時点でギブアップしました。
「このあいだは5歳の子供もやったのよ!あなたも頑張りなさい!」と看護士さんが言っていた言葉をはっきりと覚えています。
「イヤだ!」というのになおもしつこくホースを奥に入れようとされたので、私は「やめろバカヤロー!」と怒って、ホースを引き抜き、無理やり検査を中止させてしまいました。
そのためその病院には2度と行けなくなってしまったのですが、まあよしとしましょう。「びっくり人間」にならなくて済んだのですから。
そしてその後、別の病院で「本当は胃カメラがいいんだけどねぇ」と言われながらも、「バリウムで勘弁してください」と、はじめての「胃部X線検査」を受けたわけです。

さて、何の話でしたっけ・・・

そうです。「バリウムを苦もなく飲む方法」の話でした。

私はここまでダラダラと書いてきたような経験がトラウマ(正確にはトラウマとは呼びませんが)となって、「胃部X線検査」というものに強い嫌悪感というか恐怖感というか、そんな感情を持っていました。

そのため最近まで健康診断のときは必ず、「今日は体調が悪いので」とか「バリウムは体質に合わないので」などと言って、こっそりと「胃部X線検査」を回避してきていました。

しかし昨年、私は勇気をもって「胃部X線検査」を受けたのです。
「このままオレはバリウムから逃げ続ける人生を送るのか?」
そう自分に問いかけ、
「いや、前を向いて闘おう!今のオレならきっと闘える!」
と、「胃部X線検査」を受けることにしたのです。


・・・案外平気でした。
バリウムを飲み干すのに少し時間がかかりましたが、10年前に経験した「胃部X線検査」のときとは全然違いました。正確にいうと、違うように感じただけかも知れません。
しかしそれはそうです。
吐き気がひどくて病院に行っているのに、吐き気がひどくなるような検査をされたら辛くて当然だったのです。
昨年は「すっかり元気」だったので、大した苦もなく検査を終えることができました。
「これでオレも一人前のマトモな大人になれた」
本気でそう思いました。
嬉しくて操作官に何か冗談を言った気がするのですが、スルーされたように思います。
「冗談の通じないヤツめ・・・」と思った記憶だけは残っています。


そして今年。
昨年の検査で自信をつけたとはいえ、1年のブランクがあります。
やはり少し不安でした。
「やっぱ回避しよっかな・・・」などという考えも浮かびました。
しかしここで逃げたら、昨年の喜びが台無しです。
私は勇気をもって「胃部X線検査」を受けました。

そうしたところ今年は全然へっちゃら。
「何なら明日も来ようか?」
と言ってやりたいくらい、へっちゃらで検査が終りました。

そしてようやく本題に入るのですが、「胃部X線検査」を苦もなく乗り切るための方法を発見したのです。
それはたった一つ。
たった一つの方法さえ知っていれば、「胃部X線検査」が苦痛ではなくなるのです。

どのような方法か。
以下を心に刻んでください。

あたかもビールを飲むかのように、アグレッシブにバリウムを飲め

これだけです。
アグレッシブというのはちょっと正確な英語表現ではないでしょうが、アクティブ運用・パッシブ運用のアクティブに近いような感覚で使っています。

どのようなことか、簡単に補足します。
8月の暑いある日、あなたは仕事を終えて家に帰ります。
「あぁ、今日もがんばった」
そう呟きながら、あなたはビール(発泡酒や第三のビールでも構いません)の缶のプルタブを「プシュッ!」と開けます。
そして嫁さんなんかに「お疲れ~」などと言いながら、一気にビールを流し込むでしょう。
そう!
まさにその方法です。

バリウムも同様に、一気に流し込むのです。
しかも「一口飲んで」と言われれば、一気に三口くらい(アグレッシブに)飲みます。
「口に含んで」と言われたときも、勝手に二口くらい(アグレッシブに)飲みます。
そうするとあら不思議。
検査の序盤戦で既にグランデサイズのバリウムが、リポビタンDくらいの量に減ってしまいます。

そうすると後は楽勝。
「全部飲み干して」と言われたときも、「はいよっ!」とばかりに飲み干せるのです。

そうです。
ビールのように飲めばよかったのです。
決して焼酎をチビチビやるように飲んではいけません。


これだけを心しておけば、あなたも「胃部X線検査を毎日受けられる心持ち」を味わうことができることでしょう。

最後にひとこと。
トイレでバリウムが出てくるまでが検査です。
便秘がちの方は気をつけてください。


---------
こんな下らないことを数日かけてチマチマ書いていたのですが、@hrgr_ktaさんが「胃が痛い」とおっしゃっていたので、何かの参考になれば幸いです。(きっと参考にならないとは思います)

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今年のゴールデンウィーク

2010年05月16日
ここのところ企業法務ネタをあまり書いていないことに気付きました。

「企業法務系ブログ」という括りで扱って頂くことの多い本Blogですが、私生活の話題や、経営まわりの話、子育てなど、実に雑多なことを書いているので、案外読者層は幅広いようです。
・・・ということが、最近わかってきました。

今や「町の売れない雑貨屋さん」状態で、経営戦略としては下の下なのですが、あえてこのまま行きたいと思っています。



さて先日のGW、急遽神奈川県某所に1泊の小旅行に行ったのですが、途中で鎌倉を散策してみました。
そしてまだ行ったことのなかった建長寺にフラっと行ってみました。
最近は「禅」が注目を浴びていることもあり、臨済宗の建長寺は混んでいることを予想していましたが、案外空いており、駐車場も待たずに入ることができました。

建長寺は予想以上に心地のよい場所で、随分立派な門やら本堂やらに感心しきりでした。

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そして裏庭にある庭園はとても美しく、ぽかぽか陽気の中でしばしベンチに座って庭園を眺めるという贅沢を味わいました。
平日に一人でボーっとしたい時などに最適な場所かも知れません。

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そして体調を崩している妻が何やらお守りを買っている横で私は、「How to practice ZAZEN」という本に興味を惹かれ、買ってみました。(予想通りAmazonでは扱っていなかったので、リンク先は発行元のHPです)
「座禅」が海外にどのように紹介されているのかという興味と、かわいい表紙に惹かたのです。

いずれ気が向いたら感想でも書いてみますね。



さてその建長寺では、金澤翔子さんという、ダウン症の女流書家の個展が開かれていました。
翔子さんは最近テレビなどにも取り上げられているそうで、割と有名な方のようですが、私は存じ上げませんでした。

ただ私は子供の頃、ダウン症の子と触れ合う機会の多い環境にあったため、ダウン症に対する社会の偏見というものに怒りを覚えることが多くありました。
そのため10年ほど前から、あるNPO法人の賛助会員として、僅かながらの協力させて頂いています(僅かばかりのお金を時々出すだけなので、大した協力ではありません)。

とはいえ、私は残念ながら「書」を鑑賞しても、その魅力を語るだけの鑑賞眼とでもいうべきものを持ち合わせていません。
しかし翔子さんの「書」は、ダウン症とかそんなことに関係なく、人を惹き付ける魅力のあるものであるということだけはわかりました。
特に、屏風に描かれた般若心経には心を奪われました。約300字にも及ぶその「書」の一つ一つの文字に魂が入っている、そんな印象です。

最後に翔子さんは気軽に写真撮影にも応じてくれ、4歳の長女を抱っこして遊びながら、わが家の家族写真におさまって下さいました。

また会場では翔子さんの下記の書籍が販売されていたので、これまた早速購入。

天使の正体―ダウン症の書家・金澤翔子の物語天使の正体―ダウン症の書家・金澤翔子の物語
(2008/12)
金澤 泰子

商品詳細を見る


ちょうど来週(5月23日)まで、新宿のアートコンプレックス・センターというところで、金澤翔子「小作品」展が開催されていますので、ご興味のある方は行ってみてはいかがでしょうか。


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さて、あれこれ詰め込み過ぎになってきました。いつもの悪い癖です(笑)
最後に、どうしても載せておきたい写真を。

宿泊先のホテルのプールで、「大きくて透明なビーチボール」の中に入ってプカプカ浮かんで遊ぶアトラクションに出くわしました。
「やりたい!やりたい!」と子供たちが訴えるし、何だか面白そうだったので早速挑戦。
ビーチボールの中に2人が入り、会場のお兄さんが大きなホースでビーチボールに空気を入れ始めると、長女は突然、「いやだー!出してー!」と恐怖におののき泣き叫び出します。

「どうします?」と心配そうに私に聞いてくる、日焼けした会場のお兄さんに対して私は、
「やっちゃってください」と鬼の決断を下します。

下の写真をご覧下さい。
張り切って大暴れする長男に翻弄され、逆さまになったり転がったりする長女の姿です。
今年一番笑った時間でした。

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長女よ、スマン。
お父さんはちょっとイジワルなのだ。





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